芋煮会、遠足に続き、あいにくの雨となりましたが、キッズドアでは東日本大震災で津波被害と原子力発電所による強制避難を受けた『浪江町の今』を知るため、10月22日スタディーツアーを実施しました。

案内していただいた地域、バスの中から見る風景、ガイドの方から聞くお話、どれもが深く心に突き刺さるものがありました。

仙台から向かうバスの中で、まず初めに「なぜ参加しようと思ったか」を発表しながら各自自己紹介を行いました。

今回参加してくれた大学生が3人いますが、みんな東日本大震災当時は中学生。
3人のうち2人はいわき市出身と浪江町出身の大学生です。
浪江町出身の大学生は、津波発生後すぐに埼玉の親戚の家に身を寄せ、その後も家族はずっと関東で生活を続けています。
中学生時代、福島から東京に避難した家族の支援としてキッズドアが子供向けに開いていたワークショップに彼女も参加したことがあるそうです。
今年、彼女は山形大学に入学し、7月からはキッズドアのボランティアとして登録。現在は月に3,4回、仙台で活動してくれています。
今回は「久しぶりに浪江町を訪れたい!避難解除後の浪江町の街づくりについて私も学びたい!キッズドアの皆にも浪江町を知ってほしい!」との想いから一緒に参加してくれることになりました。

自己紹介の後は、今回の企画設計の段階から親身に相談に乗ってくれた「きぼうのたねカンパニー」代表の菅野瑞穂さん(二本松出身)が、福島の震災被害と宮城・岩手の違いについて、農業生産者としての想いなどをお話してくださいました。

浪江町役場に到着後は、「一般社団法人まちづくりなみえ」の菅野孝明さんより、震災発生からこれまでの「なみえ復興」の概要についてお話を聞きました。

避難が解除され、徐々に住民が戻ってきていますが、震災前に2万人いた住民は、2019年9月1日時点で1138名(704世帯)。
6年間もの間、人口0だった町ですが2017年3月31日に一部地域が避難解除となり、最近では月に20名~30名のペースで人口増加しているそうです。

とは言え、除染した土を入れた袋が集積された場所が至る所に見られ、綺麗で立派なのに誰も住んでいない住宅がたくさんあります。
それをこれからどうしていくのか、まだまだ復興への道は半ばだそうです。

宮城・岩手の復興から見ると、だいぶ遅れている、まだまだ始まったばかりという印象を受けました。
そんな中、2020年で国の支援が切れるかもしれない、その後どうしていくのか?という不安を皆さん抱えています。

昼食は、浪江駅前のカフェモンペルンで頂きました。

浪江駅は、現在北からは電車で行くことができますが、南(東京方面)から来る電車は富岡町までしか運行していません。
途中に、大隈駅・双葉駅(帰還困難区域)があり、バスに乗り換えていく必要があるそうです。

このカフェの日替わりランチは、なんと550円!
避難解除後に住民の憩いの場所があるといいね!という想いで、未経験のスタッフが数名で立ち上げたそうです。

昼食後は、請戸漁港に向かいました。

\2018年1月2日、請戸漁港 7年ぶりの出初式の様子/

(photo:毎日新聞サイトより)

途中、今年7月にオープンしたばかりのイオンモールの前を通りました。
このスーパーができる前は、車で片道30分かけて隣町のスーパーに買い物に行っていたそうで、イオンの出店に町民はみんな感謝しているそうです。

雨脚が強く車窓からの漁港見学となりましたが、このあたりの漁獲量は震災前の15%までしか回復しておらず、10キロ圏内で試験操業中だそうです。
そして、ようやくこの10月に、市場施設が落成式を迎えます。
原発や復興関連の土木建設業ではない、町の産業を復活させ人々が働く場所を作らなければ、人は戻って来ません。

堤防は7.2メートルで、思ったよりあまり高くありませんでした。
震災前から1メートル嵩上げしたものの、宮城・岩手のリアス式海岸の堤防に比べて低い理由は、まっすぐな海岸の地形だからだそうです。
この請戸地区には、震災前に600世帯が住んでいましたが、みんな戻ることを諦めました。
津波で全てが流され、さらにその後に原発事故が発生。自然災害が先に起きたことで住宅の補償が0だった地域とのこと。
そんな理不尽なことが本当にあったと信じたくありませんが、事実です。
そのため、住民は集団移転を決意し、この地域全体の土地を町に売る形で、生活再建のための資金を得ました。
さらにこの地域は、平均60㎝の地盤沈下がありました。水の流れが悪く、バスが通れないほどの大きな水たまりも多く見られました。
この広大な土地を、果たして町は、国は今後どのようにしていくのでしょうか…。

漁港の次は、請戸小学校に移動しました。

こちらもバスの中からの見学となりましたが、震災当日は卒業式の練習中で、
近隣の方が「津波が来るぞー!」と学校に知らせに来て、みんなで1.5キロ歩いたところの大平山へ向かったため全員助かったそうです。
学校の時計は3:38で止まったまま。津波が校舎を襲った時間です。
もしもの時の避難経路をちゃんと住民が確認していたからこそ、子どもたちの命を救うことができました。
この校舎は、震災の記憶として、このまま残すことに決定したそうです。

最後に、バスは大平山霊園に向かいました。

途中、菅野さんからイノシシのお話も聞きました。
人が居なくなった町では、野生動物が急増し、イノシシは山にある家以外に、里に出て色んなところにシェルターを作ってしまったそうです。
これまで捕獲されたイノシシは1600頭もいるそうです。(現在の人口よりも多い…!)

大平山霊園は、お墓が流されてしまった方、震災で亡くなった方のために作られました。
住民が一番最初に再建して欲しいと願ったのがこの墓地です。
ここは、盛り土をして高台になっており、また津波があった時には人が逃げてこれる場所として、水とトイレを完備しているそうです。

3月11日、多くの町民が自力では避難できずに、助けを待っていました。
地元の人々も、精一杯力を合わせて助けられるだけ助けました。
暗くなって、残った人たちに「明日また来るから、それまで頑張れ!」
そう声をかけて夜の活動を終えた翌早朝、原発事故により全町民に強制避難指示が出て、立入禁止区域となったそうです。

まだそこに、助けを待っている人がいるのに、
もしかしたら家族が助けを待っているかもしれないのに、
強制的に避難させられた人々の気持ちは、本当に身を切られる思いだったでしょう。
そこに残っていて、陽が登っても助けが来ないという事を知った時、残された人々の気持ちはどれほどのものだったでしょう。

\刻一刻と悪化する原発の状況、拡大する避難指示に情報が錯綜しました/

( photo:福島県観光交流課「福島のあの日からいま」より )

原発の施設があった町では、東京電力がバスを用意し避難をさせたそうですか、浪江町には原発施設がないため、東電や国からの情報は個別には全くなかったそうです。
「とにかく避難を!」と言われ、原発から離れようと移った先が、実は風向きのせいで一番放射能の高い所だったり、受け入れ先がないまま逃げたので2万人の住民が本当にバラバラになってしまいました。
避難先は43都道府県にのぼり、それも町の再建の大きな障害になっていると言います。
震災当時の町長はもうお亡くなりになったそうですが、無念と自責の念を常々語っていたそうです。

\ふるさとを離れ、沿岸部から避難する車の列は先が見えなくなるまで続いたそうです/

( photo:福島県観光交流課「福島のあの日からいま」より )

役場に戻る帰り道、田んぼの保全や、除染土の行く末についてもお話を聞きました。

田んぼの保全は進んでいて来年にでも完成できそうですが、水路の整備が追いついておらず、まだまだ再開には時間がかかるということ、さらに誰が担い手になっていくのか、といった問題も抱えています。
この日は祝日だったので少なかったですが、平日の道路は8割がた除染土を運ぶトラックだそうです。
除染土の中間保存施設は最大30年保存ができますが、最終受け入れ先は県外になる予定で今のところまだどこになるのか決まっていません。
原発施設の中の汚染水や、燃料の取り出し、そして廃炉まで、あと何年かかるでしょうか。
30年、40年、50年かかるかもしれません。
技術を高め、いつか実現される日が来ることを祈っています。

役場に戻ると、浪江町に「若手サークルなみとも」を立ち上げた小林奈保子さんが待っていました。

もともとは田村市の出身で、田村市復興応援隊を4年間されていましたが、浪江町の避難解除に伴い、旦那さんに同行しこの町で一緒に暮らす決断をしました。
小林さんのお話では、とにかく元気なお年寄りが多くてびっくりしているとのこと。
毎日、お茶っこ、体操教室、カラオケなどの集まりをハシゴしている方が多く、それほど困難や不便を感じている様子はないそうです。
限られた報道によって、実際には住民が幸せに暮らしていることが伝わっていないのではと仰っていました。
一方で、若い人向けのサービスや施設はほとんどなく不便さを感じています。
そこで「ゲストハウス青田荘」を作り、若い人の憩いの場・出会いの場を生み出しました。
地元の若者だけでなく、大学生を誘致したり、外部の方との交流なども色々と企画されています。

最近では、子育て支援に関心があるそうです。
町内は高齢者か、土木関係の男性ばかりで、お母さんが安心して暮らせる設備や支援が不足しています。
近隣のショッピングや公園、小児科、子連れできる飲食店などをリスト化し、ママ同士の交流を生む方法を考えたいと仰っていました。

最後に、3グループに分かれて、今日の振り返りを行いました。

このワークショップは、子どもたちの反応が本当に素晴らしく、たくさんの意見を言いあい、大学生や大人と同等に考えて発表していて感動的でした。

<考え続けたいテーマ(理由)>
・再び人口2万人へ(理由:1度誰もいなくなったこの町が、また以前のように活気づいた町に戻ってほしいから)
・自分ができること(理由:人の繋がりやコミュニティについて聞くうちに、自分が人に対してできることって何だろう?と考えたから)
・風評被害、原発の重要性、子育て支援やコミュニティ作り(理由:これだけの被害をもたらす原発は本当に必要なのか?対策できないのか?福島出身や福島産というだけでいじめや差別があること。将来は少子高齢化や地方活性化に国の立場から関わりたい。その時にスケールの大きい話ばかりでなくそれぞれの小さな地域のことも考えられる人になりたい)
・原子力災害地域と他の地域との交流(理由:被災した人は前向きに復興していてもなかなかそれを活かせていない。小さな交流でも続けて行けば一人一人のイメージが変わると思う)
・私が生かされている意味(理由:宮城や福島で起きた震災体験という事実を見聞きしている私たちは、この教訓をどう捉え、考え、生きていくのかを問い直したい。それを私の友人たちからさらに世界へと広げていきたい)
・コミュニティ作り(理由:コミュニティがあるのは当たり前のことではないんだと気づいた。コミュニティは国が動かなくても自分たちが動けば作れると思うから)
・支援、援助とは何か(理由:支援や援助は金銭的に助けることだろうか。何かを作るだけなのだろうかと疑問の思ったため)

<今からやってみたいこと>
・コミュニケーションを大切にする
・もっと災害に興味を持ち、学ぶ
・誰かに助けを求められた時、その人が本当に必要としているのは何かを考える
・記録を取ったり、知るということ
・震災関連についてもっと知る、イベントに参加する、ボランティアする、情報を活用する
・色々な地域で色々なことを試してみる
・次世代へ東日本大震災を伝える
・常に誰かのためを考えて生活する
・今日知った浪江町の現状を少しで多くの人に伝える

<参加前とのイメージの変化>
・怖い、危険というイメージがあったが、現在いるところは東京の放射能度と同じ位と聞いて、全然大丈夫なんだという安心に変わった。
・危ない、荒れているというイメージを持っていたが、放射能はほとんど検出されていないこと、原発の6キロ近くまで行けたし安全だと分かった。
・6年間もの間、時間が止まっていたことを強く感じた。聞いてはいたがここまでとは思わずびっくりした。
・今住んでいるのは「戻ってくる」選択をした人たちなので、前向きな人が多いと聞いて納得。
・復興を目指しているイメージは正しいが、今の段階では絶対的に限界があると思った。
・原発事故という決定的な違いはありつつも、若者が少ないといった問題は過疎地域と似ていると思った。
・自分が思っていたよりも明るく前向きで、町を少しでも良くしようという気持ちが強かった。
・みんな何のために伝承するのか分かった気がする。家族・友人・生まれ育った地域への愛。死を無駄にしないための使命感を感じた。

圧倒される現実を見せられたことにより、それを咀嚼して一生懸命前向きに考えようとする姿がありました。

これまでもキッズドア東北では、様々なイベントやキャリア教育などの機会を作って来ましたが、
着実に子どもたちの土台を作っていると感じました。

今度は、ぜひ東京の子どもたちや大学生、大人にももちろん来てほしいです。
東京から車で3~4時間。
世界で唯一の災害に向き合う人々との交流は、自然災害が多い日本のこれからを考える上で、とても、とても重要だと感じます。

最後に、スタディツアーとワークショップをしてくださった「一般社団法人まちづくりなみえの菅野さん・小林さん」、
企画から携わってくださった「きぼうのたねカンパニーの菅野 瑞穂 (Mizuho Sugeno)さん」、
本当にありがとうございました。

また、ぜひお伺いしたいです。
よろしくお願いいたします。

#キッズドア東北 #東日本大震災 #浪江町